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軽雷集
(けいらいしゅう)
少年のわれ山河(やまかは)に親しみて此処に学べり二十年(はたとせ)まへは
中村憲吉の母校、県立三次中学校(現三次高等学校)の校門正面の築山にある歌碑の歌。第4歌集「軽雷集」中の大正14年(1925)の作。
憲吉は明治34年(1901)三次中学に入学、校友会雑誌「巴峡」に寄稿するとともに、友人たちと回覧雑誌「しら帆」を作り、文章や俳句を載せた。3年後輩の倉田百三もこれに参加しており、ともどもに“文学の芽”を競い合った。
そのころの憲吉は「香川霧村」という筆名を使っているが、姓の方は、一時遠縁の香川家の養子として移籍していたためであり、名前の方は、故郷の旧布野村や三次地方が霧の深い土地柄だったことから来る連想だろう。
この山の桜にむかひ流れくる川
ひろくして水のひかれる
は、今、尾関山山上の歌碑となっている。
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