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廉塾
(れんじゅく)
6度目の京都遊学から帰った菅茶山(かんちゃざん)は、天明元年(1781)、川北に家塾を開き、「黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんじゃ)」と名付けた。学問的雰囲気を村民教化に役立てようとしたのが開塾の理由である。寛政8年(1796)、願い出て塾とそれに付属する田地を福山藩に献上し、藩の郷塾となった。一般に「廉塾」といわれた。
茶山は、朱子学者で、詩文に優れ、『福山志科』の編纂(さん)をするなどその名がきこえていた。茶山は、経営は塾田の作徳米でまかない、塾生からは月謝をとらず、飯料・書物料などの実費負担のみで、貧富の別なく修学させた。塾生の分布は、福山藩内をはじめ西日本一帯に及び、頼山陽もその1人であった。
敷地内に小水路が通り、塾の講堂・寮舎や茶山の居宅がよく旧観をとどめている。講堂と寮舎は、桟瓦葺き、平屋建て、居宅は、桟瓦葺き、2階建てである。近世の地方における教育施設として数少ない遺例であり、国の特別史跡に指定されている。
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