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湯の山明神旧湯治場(ゆのやまみょうじんきゅうとうじば)

 湯の山温泉の湧出(ゆうしゅつ)は富士山が大爆発した江戸時代初期宝永4年(1707)のことである。寛延元年(1748)には盛んにわき出たので、当時の藩主浅野吉長(よしなが)の知るところとなって、愛好したという。翌2年には、藩の儒者堀正脩(せいしゅう)も来遊し「霊泉(れいせん)記」を著している。領内領外よりの入湯者の数は旬間1000人に達することも少なくなく、37軒の宿屋が建てられるなど、活況を呈したという。藩も湯所役人を任命して、入湯者の監督管理などにあたっている。江戸後期の書によると、湯の山神社は、「社の傍らに、霊泉ありて、人の病を療す、もとは湯元神社と称す、祭神も詳ならざりし故にや、寛延三年庚午、藩より社を再建し、出雲の社人藤間某に、改て今の神を勧請せしめらる。(以下略)」とあり、湯の山神社が再建された事情が知られる。
 現在は、旧湯坪の崖下(がいか)に共同浴場が新設されている。その上段の旧湯坪は、岩崖を掘りくぼめた素朴なものである。女子の浴場跡も確認され、湯屋の板壁には入湯者の墨書が数々残っており、江戸時代の医療とそれにまつわる信仰の姿をよく伝えている。
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