鎌倉から室町時代にかけて、仏教の諸宗派のうち民間で最も普及したのが、親鸞を宗祖とする浄土真宗(以下、真宗)である。
その教えは、在来の浄土教がひたすら来世の極楽に望みを託するのとは趣きを異にし、現世の世俗生活をそのまま肯定し、弥陀の救済は信の一念と同時に現世においてすでに決定すると説くものであった。
▼光照寺の山門
この真宗の一派が西日本に流伝してくるのは、鎌倉時代末、14世紀の初めに、明光の一門が備後沼隈半島に進出してからである。
明光は沼隈郡山南に一門を率いて入来、光照寺を草創し、中国地方への布教の拠点とした。
真宗は、当初、特に庶民に普及したが、室町・戦国期には、村人に対して首長的地位にある武士が真宗僧侶になったりする場合も多かったようである。
その理由としては、村人たちが真宗の信仰・行事をとおして村の結束を固めるようになってきたので、支配的地位にある者としてはそれに追随し、それを利用する必要を感じたためであると考えられている。
芸備地方(広島)では、支配者層の武士たちが、みずから真宗信仰に融合し、門徒の結合を政治的・戦力的に利用して自身の強化に役立てたという特色が認められる。
▼光照寺の堂宇
真宗寺院のなかには、牛田にあった東林坊(広島市中区寺町の光円寺の前身)のように、寺の僧侶や門徒を率いて毛利氏の戦力となり、各地の戦いに参加するものも少なくなかった。
織田信長が台頭し、大阪の石山本願寺を攻撃した際には、安芸門徒(広島県西部地方の真宗門徒)が大阪に出征し、本願寺を助けて信長に反抗する有力な戦力となったことは有名である。