古代の地方文化は、農村文化とでもいうべきものであったが、平氏の厳島信仰にともない、
広島地域は一躍して高い文化を受容することになった。
▼平清盛像
(宮島歴史民俗資料館蔵)
平清盛がどうして厳島を信仰するようになったかは明瞭ではないが、『平家物語』には、清盛が高野山へのぼった際、老僧より厳島神社の造営を暗示されるという宗教的体験を受けたとい
うくだりが見られる。
清盛は、厳島神社を仁平二年(1152)に修復、さらに仁安三年(1168)に修造した。この時に、社殿の規模が現在のようなものに定まったと考えられている。
また、当時の貴族の住宅であった寝殿造りを神社建築に移したとされ、その配置の妙も清盛の構想によったと言われている。
清盛は、一身上の栄達の直後や、一族の運命にかかわる事件に際し、厳島を参詣した。清盛や平氏一門の度重なる参詣に
よって急に脚光を浴びるようになった厳島は、やがて法皇・上皇などの相つぐ御幸も仰ぐことになった。このように頻繁
に行われた参詣は、中央との文化交流を促した。例えば、清盛一行が厳島においてくり広げた祭礼法会では、宮廷所属の楽人・舞人
と厳島社所属の楽人・舞人との共演による技能の交流が行われたものと考えられている。
▼厳島神社社殿
厳島には、平氏の信仰と、これにまつわる文化交流の跡を偲ばせるものが数多く伝えられている。とりわけ著名なものは、平家納経の名で知られる経巻群である。
平家納経は、法華経二十八巻に開結二経と言われる無量義経・観普賢経の二巻、および阿弥陀経・般若心経各一巻を加え、これに清盛自筆の願文一巻を添えた全三十三巻より成る。
表装や外題に用いた金銀の金具の装飾、巻軸を水精に金銀あるいは螺旋珠玉で飾った趣向、料紙と文字の多彩、表紙・見返絵の画題と画風など、贅美の限りをつくしたものとなっている。
付属する雲竜文経筥や朱絹の網袋とともに、藤原美術工芸の粋として重んぜられる。
平氏滅亡後も厳島の文化は、頻繁に来遊した各種文化人によって高められ、西部瀬戸内海域における文化の中心的位置を占めた。