広島県を地形的に大きく区分すると、中国山地・瀬戸内沿岸・島嶼部の三つに分けられる。 中国山地は、北側を標高1000〜1300mの山々が連なる脊梁山地で区切られ、南側は標高300〜450mの台地上にある北広島町・明神峠、安芸高田市上根峠、世羅台地、府中市上下町を結ぶ分水嶺の北側地域を指す。 この地域は海抜約100〜1300mで、中国地方最大の流域面積をもつ江の川が多くの支流を集めて流れ、変化に富んだ地形をつくっている。 この地域に人々が住み始めるのは、約3万年前のことである。 以後、人々は自然と闘い、農耕をはじめ、各種産業と関わりを持ちながら、歴史や文化をつくってきた。以下、中国山地を舞台とした特色ある文化について、紹介する。
▼六の原鉄穴流し跡(庄原市)
中国山地は風化しやすい花崗岩が広く分布しているが、このことが広島県の歴史と風土の形成に大きく関わっている。
この風化した花崗岩は鉄分を多く含んでいることから、古くから砂鉄によるたたら製鉄が各地で行われた。現在、確認されている最古の製鉄遺跡は三次市三良坂町白ヶ迫製鉄遺跡で、古墳時代後期(6世紀後半)には鉄生産が開始され、農工具や武器類を製作していた。
奈良時代には,税の一つである「調」(地域の特産物)として備後国三上郡(現庄原市)では鍬を納めている。
平安時代初期には備後国北部の八郡が調である絹に代わって、鉄製品を納めており、鉄生産が盛んであったことを示している。
一方、芸北地方の製鉄は、11世紀代に操業された北広島町大矢遺跡が現在のところ最古遺跡であるが、山県郡三角野村(現北広島町)では、寛元3年(1245)に年貢として米の代わりに、鉄製品を納められていたと記録されている。
江戸時代には高殿たたら製鉄と呼ばれる大規模な製鉄活動が中国山地の各地で広島藩営や民営のもとに操業され、出雲国と並んでわが国屈指の鉄生産地となった。
江戸時代のたたら製鉄は、砂鉄を採取するための鉄穴流しで大量の土砂を流出し、下流域の田畑が埋没するなど公害問題も発生し、訴訟がしばしば起こった。
明治時代に入ると、官営広島鉱山落合作業所や中国製鉄株式会社などが洋式技術の導入を図りながら操業したが、明治34年の八幡製鉄所建設に伴う近代製鉄業の開始により、中国山地のたたら製鉄業は衰退し、大正年間には、その火を消した。
中国山地で生産された鉄は各種の製品に加工されたが、鎌倉時代以降、良質な鉄材を求めて、刀匠たちが、広島県北に来住し、刀剣製作に当った。
江戸時代末期には、三次や芸北地方は広島県有数の刀剣生産地になり、現在でも、4名の刀匠が活躍している。
一方、中国山地の森林資源を利用した製炭業は、たたら製鉄をはじめ、銅山や銀山での燃料として使用された。
三次市吉舎地方で開発された良質な「吉舎炭」は島根県大森銀山の銀溶解炭として利用されたことが記録されている。
広島県北部地域に広い流域面積をもつ江の川は中国地方最大の河川で、古くから漁撈が行われてきた。
この流域の最古の遺跡は縄文時代中期の庄原市陽内遺跡で魚網の石おもり錘が出土している。
江戸時代の文政年間(1818〜1829)に編纂された『三次町国郡志』や『芸藩通志』には、江の川からの漁獲物として「鯉、鮭、ひらめ比羅売魚、あゆ香魚、どじょう泥鰌、はえ鮠、かわえび川鰕」等が記録されている。
また、香魚(鮎)の項で「三次郡は鵜づかひ多く香魚を捕る。…一人して鵜六七羽もつかふ。」とし,鵜飼漁も行われていた。
三次地方での鵜飼漁の起源は明らかでないが,江戸前期には三次藩の保護を受け、鵜匠制度も確立していた。
鮎は焼鮎や塩漬にされて、徳川将軍家等に毎年献上されるとともに、県北の人々の重要なタンパク源として消費されたようである。
▼江の川漁撈 タタキ漁
また、江の川の漁撈文化を支えた川漁師たちは厳しい社会状況の中で、先人たちの「技」や「心」に学びながら、瀬・淵など河川環境は無論のこと、魚の習性や、創意工夫した技術や道具の改良を行ってきた。
さらに、魚種や季節、地形等によって、各種の漁法(刺網漁、かぶせ網漁、すくい網漁、建網漁、竿釣漁、モジ漁、ツケバリ漁、突鈎漁等)を生み出し、現在に伝えている。
江の川の漁撈文化の特色を語る上で『モミ制度』の存在も見逃せない。
「モミ」というのは、川漁師が共同作業で漁を行い、漁獲物を均等に分かち合う、相互扶助の仕組みで、先人たちが伝えてきた技術を次世代に引き継ぎ、生活を守っていくための知恵でもあった。
江の川流域の漁撈文化は、最上川・荒川と並び、わが国を代表するもので、これらに使用・保存されてきた漁具1253点が江の川流域の漁撈文化を理解する上で欠くことのできない資料として、国の重要有形民俗文化財に指定されている。
一方、瀬戸内海や日本海沿岸部と遠く隔だった地域である県北地域は、古くから沿岸部との交易があったようで、古墳時代中期(5世紀)には、出土遺物から瀬戸内沿岸から塩が運ばれていたことが分かる。
江戸時代後期には、田植えの賄用として沢山の鯵や鯖が三次町に運ばれ、周辺の農村から買い求めにきたとの記録もある。
明治時代以後の食文化として見逃せないものに、「ワニの刺身」がある。「ワニ」は日本海産のサメのことである。
県北地方は海の魚といえば、塩漬けされた魚か、干物が多かった中で、ワニは腐りにくく保存がきく魚として、全国的にも数少ない「ワニの刺身文化圏(江の川流域の三次市・庄原市・世羅郡)」をつくっている。
中国山地の水稲耕作は古く、北広島町横路遺跡や三次市高蜂遺跡などの出土遺物から、弥生時代前期の段階から開始されている。
初期の水田は氾濫などの被害を受けにくい低湿地や、水の管理のしやすい谷水田が選ばれたが、中世以降は土木技術も進展し、河川堤防やため池建設により、大規模な水田経営が行われるようになった。
稲作は四季の移り変わりの中で、田植え、草取り、虫送り、収穫などの作業を経る。この間、神々に豊穣を祈り、そして、感謝するための伝統的な行事も合わせて行われた。
県北地方には、数多くの伝統行事・祭りが継承されてきている。
田植行事は、豊作祈願の芸能で地域により、「供養田植」「花田植」「はやし田」「田楽」の名称で県北各地に伝えられている。
庄原市や神石高原町の「供養田植」は中世に起源をもち、神仏混淆の祭式によって牛馬の供養とその安全を願う大山神社の信仰に基づくものである。
一方、芸北地方の「はやし田」「花田植」は神事田植と仕事田植えが融合したものや大地主の勢力誇示のために実施されてきた。
現在では、田植えも機械化され、町興しのイベントとして開催されることが多い。
7月には「虫送り」行事が各地で行われていたが、現在では少ない。
藁人形や幟を立て、太鼓で調子をとりながら、地域のはずれまで行進する。
藁人形は平実盛で、実盛が稲株につまずいて敵に討たれたので、これを恨み、病害虫になって災いをすると、言い伝えられている。
実盛を慰めることで、病害虫が発生しないように祈る祭りである。
▼比婆荒神神楽
10月に入ると、各地で五穀豊穣を感謝して多様な神楽が舞われる。
庄原市東城町域に伝わる「比婆荒神神楽(国重要無形民俗文化財)」は小地域単位(名)に祭られた荒神社の神楽である。
1年ごとに行われる小神楽と、5・7・13・17・33年単位に行われる大神楽(式年)とがあり、大神楽はかつて、4日4夜、神事舞・能舞が舞われていたが、現在では2日1夜のところが多い。
芸北地方は石見神楽の系統に属する神楽で、華美な衣装をまとい、派手な演出や早いテンポで舞い、観衆を魅了する。
演目は神話の「岩戸」「大蛇退治」だけでなく、能舞の「紅葉狩」「大江山」など数多くを演じ、神楽団は各地にあり、年中開催される神楽競演大会に出演する団体も多い。
11月には、北広島町や庄原市の神社で「水祭り」「世量酒神事」と呼ばれる神事がある。
神社の建物内部に1年前に埋めた甕の中の酒の発酵状況や量の変化を見て、翌年の米の作柄を占う行事も伝えられている。