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自休堂(じきゅうどう)

 この小堂は自休観音堂ともいわれ、天和(てんな)2年(1682)に八幡社殿として建立されたものを、宝暦9年(1759)に現在地へ移築したものという。周囲に五輪塔などを残しており中世には品慶寺(本現寺ともいう)という寺院があって、自休の開基と伝えている。
 僧自休についてはよくわからない。京都紫野の大徳寺の僧であったが、この地に庵(あん)を結び、根自休と称したとか、鎌倉五山の1つ建長寺の僧であったが、仏通寺(三原市)にいた後この地に来たともいう。建長寺のころ愛童白菊を葬ったという「白菊の塔」が、隣接する吉田町上入江(かみいりえ)にある。「陰徳太平記」には、大内義隆が銀山城攻めの際この旧跡を訪れたことや、はるばる京都から訪ねてきた純蔵主一休を、さまざまな神通力でもてなしたことなどが記されている。
 今、草葺きから瓦葺きに葺き替えられたこの宝形造りの小堂は、地域の人々によって守られているが、女性には乳が授かると伝えられ篤(あつ)く信仰されている。母乳を授かりたい時には、御堂に御飯を供え祈願すると、必ず願いを聞き届けられるという。本尊が観音であるところの観音信仰に基づく民間信仰であろうか。それとも自休蔵主の神通力に期待した信仰なのであろうか。
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