江戸時代後期の広島県の教育と文化を語る時、備後の菅茶山と安芸の頼春水・山陽父子を欠かすことはできない
▲菅茶山肖像画
(広島県立歴史博物館蔵)
▼国特別史跡 廉塾
菅茶山(1748〜1827)は、備後国神辺(福山市)で農業と酒造業を営む菅波樗平(すがなみちょへい)の長男として生まれた。
本姓を菅波、名を晋帥(ときのり)、字を礼卿(れいけい)、通称を太中(たちゅう)、茶山と号した。
十九歳の時、京へ出て朱子学を学び、天明元年(1781)頃、私塾・黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)を開いた。
塾を開いた目的は村童の教育にあったが、茶山の名声により全国から門人が集まるようになった。
寛政8年(1796)、茶山は塾を永久に存続させるために、塾の施設と塾付の田地を福山藩に献上し、藩の郷校(ごうこう)となった。
以後、「廉塾(れんじゅく)」または「神辺学問所」とも呼ばれた。
茶山は福山藩の儒学者となり、藩校「弘道館」(後の誠之館)の侍講もつとめている。
私たちが菅茶山を偲ぼうとするならば、現在は国の特別史跡になっている廉塾を訪れるのが一番であろう。
宿場町の面影を残す神辺の町並みの中でも、神辺本陣と共に廉塾は江戸時代の雰囲気を感じさせてくれる場所である。
山陽道を往来する文人は、必ず茶山のもとを訪れたという。
また、茶山が京坂や江戸へ旅行した際にも、当地の多くの文人が茶山との面会をもとめた。
茶山の名を全国へ知らしめたのは、漢詩人としての評価である。
茶山の代表作である詩集『黄葉夕陽村舎詩』三篇は当時の大ベストセラーであり、平明で写実的な表現の漢詩は、当時の幕府大学頭・林述斎をして「詩は茶山」といわしめた。
福山藩主・阿部正倫は、寛政4年(1792)に茶山を福山藩儒学者として五人扶持を与えた。
しかしこれは、藩内の全国的に高名な詩人に対する形式的な処遇であった。
茶山を積極的に登用したのは、次の代の阿部正精(ペリー来航の時の老中・阿部正弘の父親)である。
茶山が藩校・弘道館へ出講し、藩内の地誌『福山志料』の編纂にあたったのは、正精の命によるものである。
▼頼山陽肖像画
(福山誠之館同窓会蔵)
広島藩儒学者の頼春水(らいしゅんすい)(1746〜1816)は、茶山とは若い頃からの親友であった。
頼春水は、安芸国竹原(竹原市)で紺屋を営んでいた頼惟清(これすが)の長男である。
息子が学問で身を立てることを望んでいた父の期待に応えて、春水は十九歳で初めて京都・大坂に遊学、二十八歳で大坂に塾を開いている。
茶山と大坂で初めて会ったのも、この年のことである。
天明元年(1781)、春水は広島藩の儒学者に登用され、藩校「講学所」(後の修道館)の教授となった。
茶山と春水の交友は、本人同士に限らず親族ぐるみの親密なものであった。春水の弟春風(しゅんぷう)・杏坪(きょうへい)も茶山の友人であり、春水の妻梅?(ばいし)も何度か廉塾を訪ねている。
寛政十二年(1800)、春水の長男頼山陽(1780〜1832)が脱藩を企て出奔し、連れ戻されて杉の木小路の屋敷内の一室に幽閉され、廃嫡される事件が起きた。
山陽は三年間の幽閉、その後も謹慎生活を送ったが、その間に『日本外史』の草稿を書き上げている。
『日本外史』は山陽没後に出版されベストセラーとなり,幕末から明治初期の人々に大きな影響を与えた歴史書である。
山陽が草稿を書いた場所は、現在史跡となっており、隣接して頼山陽史跡資料館が建っている。
父の春水と親密な交流があった茶山は、少年時代の山陽にも会っており、その才能を高く評価していた。
山陽を後継者にとの密かな思いを持つ茶山は、春水の依頼で山陽を廉塾の都講(塾頭)として迎えることとした。
こうして文化六年(1809)、山陽は神辺へと赴いた。
廉塾にいた一年余りに山陽は茶山の代講を行うとともに、茶山の詩集『黄葉夕陽村舎詩』の校正などを任されている。
しかし、三都 (江戸・京都・大坂)に進出して学業を成就させ,学者として天下に名をあげたいという山陽はこうした境遇にも満足できず、文化八年に廉塾を去り、京へと向かうこととなる。
その後山陽は、歴史・文学・美術などのさまざまな分野で活躍した。
川中島の合戦を題材にした「鞭声粛々」(べんせいしゅくしゅく)の詩は後世にも幅広く愛誦され、能書家としても知られ、「耶馬溪図巻」などの優れた水墨画ものこしている。
地方で人材の育成につとめた菅茶山と、中央で名を成した頼山陽、この二人は教育と文化が隆盛した江戸時代後期において、広島県ゆかりというだけでなく全国的にも第一級の文化人であった。