1 広島県の河川の概要
県内には、北西から南東、北東から南西に向う数条の断層谷に沿って流れる大小5,200余の河川があるが、江の川(ごうのかわ)水系ではその流れは日本海に下り、そのほかは瀬戸内海に注いでいる。太田川(おおたがわ)・芦田川(あしだがわ)・江の川を除いては、その多くは比較的小規模なものである。
これらの河川のうち河川法の適用を受ける河川は、一級河川が太田川水系、江の川水系、芦田川水系、高梁川(たかはしがわ)水系、小瀬川(おぜがわ)水系の5水系で368河川、長さは2,442.6kmで、国土交通大臣が管理する区間と県知事が管理する区間がある。
二級河川は八幡川(やはたがわ)水系のほか46水系、合計47水系の137河川、長さは627.7kmで、県知事が管理している。
このほか、河川法が準用される河川として、市町長が指定、管理している準用河川がある。
2 一級河川小瀬川水系小瀬川について
ここでは、あまりみなさんに知られていない小瀬川の概要と歴史について紹介する。
小瀬川は、長さ約59km、流域の面積約340平方キロメートルの川で、その流れは、中国山地の鬼ケ城山(おにがじょうやま)(1,031m)、羅漢山(らかんざん)(1,109m)などを擁する連山の一つ、広島県廿日市市飯山(いいのやま)を源とし、広島県・山口県の県境を南に流れて玖島(くしま)川と合流し、山口県玖珂郡(くがぐん)和木町(わきちょう)と広島県大竹市の工業地帯を通って、瀬戸内海に注いでいる。
▲大竹市 蛇喰磐
流域には、広島県の廿日市市、大竹市、山口県の岩国市、和木町の3市1町があり、上流部では三倉岳(みくらだけ)県立自然公園や広島県指定の自然環境保全地域で廿日市市の指定名勝でもある「万古渓(ばんこけい)」等の渓谷美を見ることができる。中流部では広島県指定の天然記念物「蛇喰磐(じゃくいいわ)」、広島県・山口県指定名勝の「弥栄峡(やさかきょう)」等の特異な河川景観があり、下流部では江戸期の干
拓による三角州平野が形成され、河口部は干拓が広がっている。
流域の90%を占める山地には豊かな森林が広がり、川岸にも色々な植物が生え、豊かな自然を象徴するクマタカやツキノワグマなどの陸上生物や渓流魚であるアマゴ、清流に住むブチオオサンショウウオ、ムカシヤンマやハッチョウトンボの昆虫類など多種多様の生き物を育んでいる。かつては、その豊富で清らかな水を活かした和紙産業が大変盛んであった。
また、小瀬川には、弥栄(やさか)ダム、小瀬川ダム、渡ノ瀬(わたのせ)ダム、飯ノ山(いいのやま)ダムの4つのダムがあるが、弥栄ダム、小瀬川ダムは、主に、大雨の時に水を貯めて下流を洪水から防ぎ、水不足の時には貯えた水を少しずつ流して、洪水を調節するために作られたダムで、渡ノ瀬ダム、飯ノ山ダムは水力発電のために作られたダムである。
近年では、その河口部において全国のコンビナートの先駆けとなる「大竹・岩国石油化学コンビナート」が発展し、瀬戸内工業地域の一部を形成している。
小瀬川近郊河川図
(国土地理院長 承認番号 平19中史, 第22号)
小瀬川は「国分けの川」として幾多の争いの舞台として歴史に登場し、西国街道の「木
野の渡し場跡」には、吉田松陰が安政の大獄で江戸に護送される途中に、二度と見ることのない故郷を偲び詠んだという歌碑も残っている。
○安芸(あき)・周防(すおう)の国境争い
江戸時代、小瀬川は安芸の国では木野川(このがわ)、周防の国(山口県)では小瀬川、また両国の国境にある川であるため御境川(おさかいがわ)とも呼ばれていた。
両国は、小瀬川河口部の干潟を干拓し農地を広げようとしたが、小瀬川はいくつも川筋があり、それらも洪水のたびに変わり、どの川筋を本流とするかを容易には決めることが出来なかった。そのため、多くが共有関係にあった広大な干潟や磯をめぐり両国の利害は衝突し、特に旧大竹村と旧和木村の国境では、度々激しい村人の争いが生じ、多くの死傷者が出た。
そこで、享和(きょうわ)元年(1801年)に両国の話し合いにより、翌年には小瀬川の川底(現在の川筋)を大きく掘り、その中央を境界とすることで和談を結んだため、それ以後、争いは少なくなった。磯別けも同時に行い、磯の境界線より双方とも30間(約54.6メートル)ずつはなして杭打ちすることにして、それぞれの利用範囲を確定したのである。
こうして、長い間続いた国境論争もようやく解決されることになり、それ以降、河口の干拓が盛んに行われ、農地が広げられていった。
○小瀬川を利用した船による交通
▲「木野川の渡しのようす(江戸時代)」
昔の小瀬川は、上流から下流の岩国や大竹方面に木材や炭、紙などの上流の産物を運ぶ大切な交通路で、川船で物を運んだり、木材を筏に組んで流したりした。明治10年代には、川底を掘って弥栄までも行き来ができたようだが、大正時代には道路が作られ、馬車や自動車の陸上輸送によって物を運ぶようになり、川船は次第に姿を消していった。
また、山陽道を下って安芸の国から周防への入り口であった小瀬川(木野川)の渡しは、大正10年(1921年)に両国橋(りょうごくばし)ができるまでは大きな役割を果たしていた。
○大竹和紙の歴史
大竹の和紙は、主に「こうぞ」を原料とし、独特の製法で作られることから、民芸品の材料や障子用の紙として現在も人気があるが、安土桃山時代(1570年頃)に、大竹に和紙の製法が伝えられて生産が始まったと言われている。
小瀬川沿いの山あいの土地は狭く田畑に恵まれていなかったものの、和紙の原料であるこうぞと和紙生産に最適な良質の水が豊富であったため、多くの村人が手すき和紙を作って生活を支えていた。
▲大竹市HPより
江戸時代になってからは、広島藩・長州藩の専売産業として藩の振興を受けて生産され、広島藩ではその当時小瀬川沿岸の紙すき職人は2,700人にも上り、大正時代には広島県側だけでも紙すきを業とする家は、1,000軒にも達した。
その後の手すき和紙は、技術改良により、1910年代初頭あたりまでは生産量が増加したものの、それ以降は、生活様式の西洋化や和紙の生産の機械化によって減退の一途をたどった。
現在では、大竹市の伝統工芸品として手すき和
紙の製法が今日に伝えられている。