瀬戸内海は、九州と近畿地方をつなぐ人・もの・情報の大動脈であり、古くから日本列島の文化の形成に重要な役割を果たしてきた。
瀬戸内海を舞台にした物資の動きは、すでに縄文時代から確認できる。
たとえば、福山市水呑町洗谷貝塚では香川県坂出市金山産の安山岩の石材がまとまって出土しており、石器の原材料となる板状の石材が、瀬戸内海を渡って流通したことが知られている。
また、古墳時代には兵庫県高砂市で産出する竜山石と呼ばれる凝灰岩が、古墳に納める石棺として近畿地方から瀬戸内にかけての広い地域で利用されており、これらが船によって運ばれたことが想定されている。
広島県内でも三原市本郷町貞丸古墳や福山市駅家町二子塚古墳など6世紀から7世紀にかけての古墳で、この竜山石を利用した石棺が確認されている。
7世紀後半以降、奈良・平安時代にかけての古代律令政府は、官道として山陽道の整備を進めた。
当初はこの陸上交通路によって地方官である国司が往復し、各地域からの税である庸・調を輸送することを原則としていた。
しかし、大量の物資を輸送するのは水運を利用する方が効率的であり、次第に瀬戸内海を経由する水運の比重が高まっていった。
こうして瀬戸内海の交通路としての重要性が増すと、その沿岸には多くの港湾が成立するようになる。
平安時代初期に成立した仏教説話集である『日本霊異記』には、現在の福山市にあった「深津市」という市場が登場する。
ここには瀬戸内海の対岸である讃岐国(香川県)の商人も訪れ、芦田川中流域の人々が正月に必要な物資を買いそろえる場であったことが記されている。
この深津市は、現在の府中市にあった備後国府の港「深津」に付随する国府市場であったと考えられており、芦田川河口のある現在の福山市域が、内陸部に位置する備後国府を瀬戸内海水運と結びつける結節点として利用されていたことがわかる。
▼現在の尾道
やがて平安時代後期の12世紀になると、各地に成立した荘園が近畿地方の有力な寺社や貴族に寄進されていくなかで、近畿地方一帯の荘園領主のもとに年貢を送り出すための港湾として「倉敷地」が設定された。
のちに瀬戸内地域有数の港町として発展することになる尾道(広島県尾道市)も、その発展の基盤は、広島県世羅町一帯に存在した荘園・大田荘の年貢を、領主である高野山(和歌山県)へと積み出す倉敷地として認められたことにある。
また、現在の広島市安佐南区祇園には厳島神社(広島県廿日市市)の荘園である志道原荘の倉敷地が置かれるが、ここものちには「佐東市」として発展をとげている。
ただ、平安時代までの港湾の具体的な姿はほとんど明らかになっておらず、港湾集落としての居住地の広がりも確認できていない。
この段階では、中世に入って発展する港町のような、居住地をともなう恒常的な港湾施設は確立していなかったのではないかと思われる。
▼草戸千軒町遺跡全景
▼広島県立歴史博物館展示室に
復元された「草戸千軒」の町並み
鎌倉時代から室町時代にかけての中世になると、各地に存在した港湾は、それぞれの地域の交通・経済の拠点として発展していくことになる。
とくに、鎌倉時代後期になると貨幣経済が進展するなかで、港湾を核とする流通・経済活動が急速に活性化した。
広島県福山市草戸町の草戸千軒町遺跡は、こうした鎌倉時代後期に成立してくる港湾集落の姿を具体的に知ることのできる貴重な遺跡である。
1920年代から30年代にかけて行われた芦田川の治水工事によって河川敷に埋もれたこの遺跡は、1961年から30年以上の年月をかけて発掘調査が実施され、13世紀中頃から16世紀初頭にかけて存在した集落の変遷過程と、そこを拠点に活動した商人・金融業者・手工業者らの生活の様子、この集落が芦田川中・下流域から福山湾岸にかけての地域経済拠点として機能したことなどが明らかになっている。
また、遺跡からは日本列島はもちろんのこと、中国や朝鮮半島、さらにはベトナム産の陶磁器など、広範な地域の生活用具が出土しており、当時の人々の生活が瀬戸内海を経由して東アジア一帯に及ぶ地域と結びついていたことを示している。
▼『兵庫北関入舩納帳』9月13日条
(京都市歴史資料館蔵)
中世における瀬戸内地域の物流のあり方を具体的に知ることのできる希有な記録として知られているのが、『兵庫北関入舩納帳』である。
これは、室町時代後期の文安二年(1445)のほぼ一年間に、瀬戸内地域各地から京都方面に向かった商船が、兵庫津(兵庫県神戸市)に寄港した際の関税台帳で、入港した日付ごとに、船籍地・積荷の品目・数量・税額・船主名などが記されている。
ここからは、当時の瀬戸内海をどのような物資がどのように動いていたかを知ることができる。
広島県内では、鞆・田嶋・藁江(福山市)・尾道・犬嶋・三庄・瀬戸田(尾道市)・三原(三原市)・高崎・竹原(竹原市)などに船籍地をもつ船が記録されている。
広島県域の港からは大量の塩が運ばれているが、これらは「備後」という名称で呼ばれている。
さらに、他の産地の塩に比べて税額が高いことから、取引価格も高かったことが想定でき、備後地域で生産された塩がその品質の高さから、一種のブランド商品化し、「備後」という地域名で呼ばれていたものと考えられる。
▼貨客両用船模型
(広島県立歴史博物館蔵)
▼遣明船模型
(広島県立歴史博物館蔵)
日本列島における伝統的な造船技術は、基本的には刳船、すなわち丸木船の延長上にあった。
写真の貨客両用船模型は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての瀬戸内海において、旅客や年貢の輸送に使われた150石(15トン)級の船を復元したものであるが、複数の刳り抜き材を縦につないだものを船底とし、その上に板を取り付けることによって船体を深くしたものである。
中世を通じて、瀬戸内海の海上輸送の主力は、こうした構造の100〜300石(10〜30トン)積の船が担っていたものと考えられる。
室町時代になると木材加工技術が発達し、縦挽鋸によって幅広い板材が得られるようになり、造船技術にも影響をおよぼした。
それまで、船底部に刳り抜き材を使っていたものが、板材を組み合わせるようになり、より幅広で深い船体が造れるようになったのである。
先ほどの『兵庫北関入舩納帳』からは、1000石(100トン)を超える大型船が航行していたことが確認できる。
また、室町幕府や有力守護大名・寺社が中国の明との貿易に利用した遣明船は、瀬戸内各地の港で利用されていた大型商船が用いられていた。
写真の遣明船模型は、室町時代の750石級の遣明船を復元したものである。